日本三大水攻め「太田城」周辺散策〜♪
                            太田党慰霊祭に同行して

419年の歴史に学ぶ

4月18日、地元の大学の日本史研究グループに交じって太田党
慰霊祭に行って来ました。その後、日本三大水攻めの一つであ
る太田城周辺を、つまりこの来迎寺の周辺を散策して来ました。

同じ雑賀衆で街起こしをしている関係で先生が一緒しないかと
誘ってくれました。あまり遺跡が残ってないのに学生さんたち
は、熱心に周辺を散策して研究していました。
それにしても暑い一日でした。(;^_^ A フキフキ


太 田 城 跡

 ここ来迎寺は、岡山県高松城、埼玉県忍城ととも日本三大水攻めのひとつに数えられる戦国時代の太田城の本丸跡と伝えられる場所である。城の範囲は現在の来迎寺、玄通寺を中心に東西250メートル、南北200メートルで周囲に深い堀をめぐらし、東に大門をもっていたとされる。
 天正十三(一五八五)年、豊臣秀吉の紀州攻めに際し、太田党は太田左近宗正を大将として、約五千人が太田城に立てこもり、十万余人の秀吉軍に対して強く抵抗したため、秀吉軍は城を取り囲む総延長五〜六キロメートルにも及ぶ堤を築き、水攻めをおこなった。攻防一ヶ月、ついに左近ら中心人物五十余人の首を差し出すことを条件に他の者が助命されたとされる。
 ここから北東約五十メートルには、戦いにより亡くなった者を葬った小山塚、北東約二百五十メートルには太田城の大門があったとされる大門橋、北東約七百メートルには水攻めの際に秀吉軍が築いた堤跡が残っている。なお、西約一キロメートルの市内橋向丁の大立寺の山門(和歌山市指定文化財)は、この太田城の大門を移したものと言われている。

来迎寺本堂の左に城跡の碑が立っています 地元出身の学生さんもハッピ着用


419年後も法要を勤めているその裏づけとして法要には、地元の方々が
当たり前のように参加していました。同じ雑賀五組でも鷺森御坊のあった
宇治郷では考えられないことです。これも、鈴木と土橋の内紛で自滅した
雑賀党に比べて日本三大水攻めで落城した太田郷士の気風が、今も当地に
息づいている・・それが羨ましく思えました。


慰霊祭のあと地元の方からの説明を
熱心に行く学生さんたち
本来の小山塚があったばしょで
院生から解説(^o^)

先生から拓本のとり方など講習 日前宮の下になんて書いてあるか
わかりますか(^o^)


上)昨年8月の調査の時、森のように茂った辺りが堤跡。
調査の結果こちらから向こうに積まれていて、しかも
短期間に急な作業で作られたことがわかった。
下)今回、堤跡の全貌を眺められる一番のポイントに住宅
ができるよう・・(^_^;)
上)出水の水攻め堤防跡を前に
    あ然とする先生と学生さんたち・・


下)ユンボの間にも堤が残っている

太 田 左 近 像

太田左近は、天正十三(一五八五)年全国制覇をもくろむ豊臣秀吉に対し、太田城に立てこもり、紀州の土豪を指揮して抵抗したという。一か月に及ぶ水攻めをうけた後、最期はみずからの命を賭して城中の子女の助命を願い城を開城したという。中世紀州の在地土豪の気風を集約した人物といえるであろう。

「紀伊続風土記」「根来焼討太田責細記」による

    太田城史跡顕彰保存会


JR和歌山駅東口の広場には、太田城主 太田左近像が
地元の人たちの要望でひっそりと立っています。







答えは、こかわ寺ちか道在り
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