雑賀関係略年表

1196(建久7) 平親宗が高野山の要請によって、雑賀荘内の紀伊湊で
      運上米に違乱しないことを、雑賀荘荘官に命じる。

1251(建長3) 雑賀荘が鎌倉の勝長寿院小御堂の修理料所にあてられる。

1480(文明12) 雑賀荘と日前・国懸宮との間で、堺芝の相論が起こる。

1534(天文3) 雑賀衆を含む紀州100人衆が大坂の本願寺に上る。

1535(天文4) 雑賀衆300人ばかりが、本願寺の求めに応じてこれに上る。

1542(天文11) 雑賀衆が畠山稙長の河内復帰の軍に加わる。(多聞院日記)

1550(天文19) 本願寺法主証如が紀伊に下向し、紀伊の「御坊」が海南の黒江から、
      和歌浦弥勒寺山(秋葉山)に移る。(鷺森旧事記)

1562(永禄5) 7月、湯河直春、鈴木孫一ら36人の雑賀衆宛てに起請文を呈す。

1563(永禄6) 本願寺法主顕如が紀伊に下向し、紀伊の「御坊」が和歌浦弥勒寺山
      (秋葉山)から、鷺森に移る。(鷺森旧事記)

1570(元亀1) 9月、摂津野田・福島で、織田信長と三好三人衆が戦い、雑賀衆は
      根来衆とともに守護畠山氏に応じ、2000挺の鉄砲を有して信長軍に
      加わる。この戦いを契機として、本願寺が反信長の兵を挙げ、いわ
      ゆる石山合戦が始まる。

1576(天正4) 4月〜5月、織田信長が本願寺を攻撃し、雑賀孫市が下間頼廉とと
      もに、大坂の左右の大将と呼ばれるほど、活躍する。
      5月、雑賀惣国の内、三組(宮郷・中郷・南郷)が、織田信長に味
      方することを示す。
      7月、木津河口の海戦で毛利水軍と雑賀衆が織田水軍を破り、本願
      寺に兵糧を入れる。

1577(天正5) 2月〜3月、織田信長が雑賀を攻め、雑賀二組(雑賀、十ヶ郷)の
      鈴木孫一・土橋若太夫らは、信長に降伏する。しかし、閏7月には
      再び本願寺方として活動する人々があらわれる。

1580(天正8) 4月、本願寺方と織田信長の和睦が成立し、法主顕如が紀伊鷺森に
      移る。子の教如は徹底抗戦を主張するが、8月には、教如も雑賀に
      退去する。

1582(天正10) 1月、鈴木孫一が土橋若太夫を殺害する。鈴木孫一の要請を受けた
      織田信張が軍勢をだし、根来寺泉職坊を殺害するなど、土橋勢力を
      雑賀から一掃する。
      6月、織田信長が四国渡海の船100艘を雑賀五組から徴発しよう
      とする。ところが本能寺の変が起こり、織田信長が明智光秀に倒さ
      れたため、鈴木孫一が失脚し、土橋氏が復権して、雑賀衆は根来寺
      らとともに、反秀吉勢力につく。

1583(天正11) 本願寺が鷺森から貝塚に移る。

1585(天正13) 3月、羽柴秀吉の紀州攻めが行われ、雑賀衆は内紛を起こし自滅。
      太田城が水攻めにされ、4月に開城し、刀狩が行われる。
      羽柴秀吉は紀伊を弟の秀長に与え、和歌山城の築城にかかる。

 



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